浜寺公園について

浜寺公園の歴史

古代、この辺りは高師浜と呼ばれた白砂青松の景勝地でした。

高師浜の地名の由来は百済からの帰化した王仁の子孫、高志氏がこの地に住み着いたことに由来するといわれています。平安時代には、白砂青松の地として多くの和歌に詠まれています。 和泉名所図会に高師浜は、和泉ではなく摂津であると書かれていることから、現在の泉大津から浜寺、石津あたりまでをさすと思われ、(泉)大津から石津あたりまで松原があったようです。

南北朝時代、後醍醐天皇の命により三光国師(覺明)がこの地に『大雄寺』という寺を建立しました。七堂伽藍をそなえた大寺院で、吉野にあった日雄寺を『山の寺』、大雄寺を『濱の寺』と呼ばれたことから、濱寺という地名で呼ばれるようになったといわれます。

このように広く世に知られた松林ですが、江戸時代の宝永年間には、この地を領していた田安家が新田開発のため数千本の松が伐採するいっぽう、紀州街道の西側に防風林として植林されたと記録されています。

しかし江戸時代が終わり、1872年(明治5年末)地元民に払い下げられた松林は換金のため大規模に伐採されるということがおこりました。 1873年夏(8月~9月と思われる)関西を旅行していた明治維新の元勲 大久保利通が、松林が伐採されているのを見て嘆き、堺県令に命じて伐採を中止させました。このとき残った松はわずか848本になっていましたが、かろうじて『千両松』『白蛇松』『羽衣松』などの銘木は残りました。

同年11月9日に堺県から公園設置の願書が政府に提出され、11月10日に内務省が設置され、月末には大久保利通が内務卿に就任。まもなく内務省より太政官布達により、官営公園として開設が許可されました。  1873年(明治6年)12月24日に堺県から公園取扱心得が布達され、堺県が設置する公園として万葉の時代からつづいた白砂青松の自然が残されることになりました。この間の経緯は公園入口に立つ惜松碑に記されています。

昭和9年9月に当地を襲った室戸台風によって公園内の建物等が大きな被害を受け、約300本の松が倒れました。すぐに復旧されましたが、まもなく日中戦争、第2次世界大戦へと世の中は大きな変革を迎えることとなります。

戦時中は、園内の古木112本が造船用材として供出させられたり、松根油から航空燃料を作る目的で掘り起こされたりしました。 戦後には一時期公園全体が接収され米軍の宿舎が建てられ、この時にも約1700本の松が伐採されました。

1957年(昭和32年)に返還されたのち、再び府営公園となり整備されました。1959年(昭和34年)からは高度成長期に、臨海工業地帯造成のため海岸一帯が埋め立てられ、白砂青松の砂浜は失われてしまいました。

この間、樹齢数百年の銘松『千両松』や『羽衣松』など多くの銘松が伐採されたり、松枯れにより枯死してしまい、現在では古木は三十数本を残すのみとなってしまいました。  埋め立てに際して浜寺公園の敷地は拡張し、プール、野球場、球戯広場をそなえた都市公園として整備され、クロマツも新たに植樹されたため、現在では5千余本の松林となっています。

 

 

参考文献:歴史から見る浜寺公園(日本造園修景協会阪奈和支部10周年記念誌 清水正之)

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